【久留米市】大善寺玉垂宮

久留米市

大善寺玉垂宮:筑後の歴史と信仰が息づく古社


福岡県久留米市に鎮座する大善寺玉垂宮は、日本の精神的・文化的遺産を深く体現する古社です。その歴史は4世紀にまで遡るとされ、白鳳元年(672年)に正式に創建されたと伝えられています。この神社は、「玉垂命信仰」の中心地の一つとして重要な役割を担ってきました。

特に、国の重要無形民俗文化財に指定され、日本三大火祭りの一つにも数えられる「鬼夜(おによ)」は、1600年以上の伝統を誇ります。この壮大な祭事は、災厄を払い福を招く儀式として世界的に知られています。本報告書では、大善寺玉垂宮の豊かな歴史的変遷、独特な建築様式、重要な文化財、そして地域社会や観光における深い関わりを多角的に分析し、その多面的な重要性を掘り下げます。


序章:大善寺玉垂宮の概要

創建年代と主祭神

神社の正式な創建は白鳳元年(672年)とされ、三池長者師直によって創建されたと広く伝えられています。しかし、2003年に1900年御神期大祭が執り行われたことは、672年以前からこの地に聖地が存在していた可能性を示唆しています。

主祭神は玉垂命(たまたれのみこと)八幡大神(はちまんおおかみ)、住吉大神(すみよしおおかみ)の三柱です。特に玉垂命は、高良大明神や藤大臣とも称され、筑後・肥前地域に広がる「玉垂命信仰」の中心的な存在とされています。この祭神構成は、地域固有の神と、仏教や他の神道信仰が融合した複雑な歴史的発展を物語っています。

神社の創建年代に関する複数の情報源は、その歴史が多層的であることを示しています。白鳳元年の創建は制度的確立の時期を指す一方で、1900年御神期大祭は、この地における信仰の営みがはるかに古くから存在していたことを物語っています。これは、大善寺玉垂宮が単なる歴史的建造物ではなく、何世紀にもわたって地域に根ざした精神的実践が適応し、統合されてきた生きた証です。

また、祭神構成に八幡大神や住吉大神が含まれることは、地域固有の玉垂命信仰が、より広範な国家または地域の宗教的枠組みに組み込まれる戦略的な意図があったことを示唆しています。このような統合は、神社の正当性を高め、有力者からの庇護を確保し、その影響力を地域外に広げる上で役立ったと考えられます。


歴史のタペストリー:聖地の変遷

本章では、大善寺玉垂宮の古来からの起源から、神仏習合の時代、有力な地域領主の影響、そして明治維新による大きな変革に至るまで、その豊かで複雑な歴史をたどります。

古代の起源と謎多き玉垂命

大善寺玉垂宮は白鳳元年(672年)に正式に創建されましたが、そのルーツはさらに深く、古くは4世紀にまで遡ると考えられています。地元に伝わる『吉山旧記』には、仁徳天皇56年(368年)に藤大臣(玉垂命と同一視される)が筑紫の地を平定し、369年には高村(大善寺の古名)に御宮を造営したと記されています。この伝承は、多くの主要な神社の正式な創建よりもはるかに古い時代から、この地が深い歴史を持つ聖地であったことを示しています。

玉垂命そのものは『古事記』や『日本書紀』には登場しませんが、筑後・肥前地域における「玉垂命信仰」の中心的な存在です。その正体については諸説あり、武内宿禰、藤大臣、物部氏との関連などが挙げられます。江戸時代以降は武内宿禰に比定する説が主流となり、神功皇后の三韓征伐における功績との深い関連性が強調されてきました。

神社の近くには古代氏族である水沼氏の墳墓とされる権現塚古墳や御塚古墳が存在しており、これは古代の地元の信仰や有力な氏族との関連性を示唆しています。

神仏習合の時代と大善寺の隆盛

神社の歴史の早い段階で、境内には高法寺(後に御船山大善寺と称される神宮寺)が建立され、神仏習合の聖地として栄えました。弘仁5年(814年)には嵯峨天皇の勅命により、三池郡司師直が大規模な造営を指揮し、高法寺は「大善寺」と改称されました。この皇室からの庇護は、神社の地位を高め、その隆盛を促しました。最盛期には、45の僧坊を擁し、社領は3,000町(約30平方キロメートル)にも及んだと伝えられています。

現在の境内には、鐘楼や阿弥陀堂といった仏教的な建造物が残されており、これらは神仏習合の複合施設として栄えた過去の具体的な証拠となっています。

地域領主の庇護と影響(中世から近世初期)

中世において、大善寺玉垂宮は有力な地域領主の庇護を受け、豊後の大友親匡からの社領寄進などにより、地域の宗教的・政治的勢力として大きな力を持ちました。しかし、戦国時代の動乱期には、小早川秀包による社領没収により一時的に衰退しました。

江戸時代初期には、力強い復興を遂げました。筑後国主となった田中吉政は、大善寺宗徒に300石の米を寄進したほか、拝殿や鐘楼を建立するなど、手厚い保護を与えました。田中氏の断絶後も、筑後北半の大名となった有馬家が同様の庇護を継続し、神社の持続的な復興と繁栄を確実なものとしました。江戸時代を通じて、神社は天台宗座主と大祝隈氏によって共同で運営され、地域の宗教的・行政的な中心としての地位をさらに確立しました。

明治維新と神仏分離の影響

神社の歴史における転換点となったのは、明治維新(1868年)とその後の神仏分離令でした。この政策により、明治2年(1869年)には境内の寺院(大善寺)が廃止され、玉垂宮のみが残されました。この抜本的な制度変更は、廃仏毀釈運動による多くの古文書や宝物の散逸につながりました。

このような大きな変化にもかかわらず、玉垂宮はその後も地域の人々から崇敬を集め続け、現在に至るまでその精神的な重要性を維持しています。鐘楼や阿弥陀堂といった仏教的な建造物が神社の境内に残っていることは、形式的な分離の後も、その神仏習合の過去を物理的に想起させるものとなっています。

大善寺玉垂宮の歴史を振り返ると、その信仰が制度的な変革の中でいかに強靭であったかが明らかになります。古代の水沼氏の信仰に端を発し、神仏習合を通じて仏教と融合し、皇室や領主の庇護を得て隆盛を極めました。明治の神仏分離によって仏教寺院が廃止されたにもかかわらず、玉垂宮という核となる部分は存続し、地域の人々から崇敬され続けました。これは、国家が主導する宗教政策や制度的変化を超えて、地域の人々の聖地に対する精神的なつながりがいかに深く根ざしていたかを示しています。

また、神社の歴史は、その存続と繁栄のための戦略的な適応に満ちています。初期の仏教との融合や、その後の皇室および領主からの庇護は、神社がその影響力と領地を拡大し、隆盛を享受することを可能にしました。戦乱による一時的な衰退の後も、神社は積極的に新たな領主からの庇護を求め、それを獲得しました。


鬼夜:炎と信仰の遺産

「鬼夜」祭は、大善寺玉垂宮の最も際立った特徴であり、その規模、歴史的深さ、文化的意義において国内外で高く評価されています。本章では、この並外れた祭事について詳細に解説します。

起源伝説:藤大臣と賊徒の物語

鬼夜祭の起源は、1600年以上昔の伝説的な出来事に深く根ざしています。具体的には、仁徳天皇56年(368年)の1月7日に遡るとされています。『吉山旧記』によると、玉垂命と同一視される藤大臣は、当時この地を荒らしていた肥前国水上の賊徒・桜桃沈輪を討伐する勅命を受けました。

藤大臣は闇夜の中、松明を照らして賊徒を捜し出し、ついにその首を討ち取り、カヤ草を用いて遺体を焼却しました。この火による清めと悪を打ち払う行為が、鬼夜祭の直接的な起源とされており、「鬼夜」という名称は、この「鬼」(賊徒/悪霊)を焼く行為を直接的に反映しているとされています。毎年1月7日に祭りが繰り返されるのは、この伝説的な出来事を直接的に記念するためです。

年間行事と詳細なスケジュール

鬼夜祭は単一の行事ではなく、大晦日から1月7日まで続く「鬼会(おにえ)」と呼ばれる一連の神事の結願の行事です。この期間中、神職は斎戒沐浴し、火打ち石で起こした御神火(鬼火)を護り、天下泰平、五穀豊穣、家内安全、災難消除を祈願します。

1月7日の主な行事は、追儺祭(ついなさい)と壮大な火祭りそのものです。そのスケジュールは綿密に計画され、実行されます。

  • 午後1時~午後4時頃:鬼面尊神渡御(きめんそんしんとぎょ) – 鬼面尊神が本殿で神事を行った後、阿弥陀堂に渡御し、「種蒔き行事」が行われます。
  • 午後7時過ぎ:若衆の境内参集 – 締め込み一本の裸の若衆が提灯や小松明を持って玉垂公園に集まります。
  • 午後8時過ぎ:汐井汲み神事(汐井口開け) – 行事役職者が汐井桶を担いで社前の川で禊を行い、お汐井を汲んで神前に供えます。その後、数百人の裸の若衆が汐井場に向かい、禊をして社殿に駆け上がります。
  • 午後9時:タイマワシの勢揃い – 境内全体の灯りが消され、暗闇の中で松明を持った手々振を先頭に、一番松明から順に社前で直会をし、鬼堂前に大松明の前に勢揃いします。
  • 午後9時半:六本の大松明に点火 – 暗闇の中、奥神殿から出た鬼火が大松明に点火され、炎と火花、爆竹音が響き渡る壮観な祭典となります。これらの松明は、直径1メートル以上、全長約13メートル、重さ約1.2トンにも及ぶ巨大なものです。
  • 鉾面神事(ほこめんしんじ) – 燃え盛る炎の前で、赤・青の天狗による魔払い神事が行われ、「ソラ抜イダ」の合図で鐘や太鼓が乱打され、祭りは最高潮に達します。
  • 大松明始動 – 燃え盛る六本の大松明が、裸の若者たちによってカリマタと呼ばれるカシ棒で支えられ、火の粉を浴びながら勇壮に神殿を時計回りに回り始めます。この大松明の火の粉を浴びると無病息災になると信じられています。
  • 午後10時過ぎ:惣門くぐり・鬼のみそぎ – 一番松明が鬼堂の東側で火取りを行い、境内を下りて惣門をくぐり、汐井場で火を消します。これに合わせて鬼はシャグマの子どもや棒頭に護られ、密かに汐井場で禊をし、神殿に帰ります。
  • 午後11時過ぎ:厄鐘(やくがね) – 鬼が神殿に帰ると灯りがともされ、行事の終わりを告げる厄鐘が七・五・三と打たれ、すべての行事が終了します。

一般観覧は無料ですが、有料の桟敷スタンド(200~250席、全席自由2,000円)も用意されており、チケットは12月1日から販売されます。

国の重要無形民俗文化財としての意義

鬼夜祭は、平成6年(1994年)12月13日に国の重要無形民俗文化財に指定されました。この指定は、その深い歴史的、文化的、伝統的価値を認め、将来の世代への保存と継承を確実にするものです。祭りの保存は「大善寺玉垂宮鬼夜保存会」によって行われており、地域社会がこの遺産を維持するために積極的に関与していることを示しています。

日本三大火祭りとしての位置づけ

鬼夜祭は、日本三大火祭りの一つとして広く認識されています。これは、和歌山県の那智の火祭り、長野県の野沢温泉の道祖神祭りなどと並び称されることが多く、その壮大な火の儀式が全国的に高い評価を受けていることを示しています。祭りの「圧倒的な迫力と壮麗さ」、特に一番松明の「惣門くぐり」は、しばしば見どころとして挙げられ、多くの観衆を惹きつけ、その評判を高めています。

鬼夜祭の中心には、火というものが持つ浄化と再生の儀式的な力が深く根ざしています。祭りの起源伝説では、賊徒の遺体を「焼却」することで悪を打ち払う行為が描かれており、その後も「厄災を払い、幸いを招く」という目的で火が用いられています。大松明の火の粉を浴びると「無病息災」になると信じられていることや、全体的な追儺の儀式は、火が悪意を破壊し、その後に再生や祝福をもたらす強力な象徴であることを示しています。

また、鬼夜祭は「数百人の裸の若衆」が巨大な松明を担ぎ、禊を行うといった身体的に厳しい活動に積極的に参加していることが特徴です。「鬼夜保存会」の存在や、「お汐井かき」や「松明担ぎ」への参加募集は、受動的な観覧を超えた、地域社会の強い積極的な関与を示しています。このような身体的かつ集団的な関与は、無形文化遺産を次世代に継承する上で極めて重要です。

なお、鬼夜祭が「日本三大火祭り」の一つであるという記述は複数の情報源で一貫して見られますが、国の文化財データベースである文化遺産オンラインの資料では、この特定の分類が明示的に記載されていないという点も指摘されています。この情報の差異は、公式な文化財指定の基準と、地域や一般社会における認識や呼称との間に違いがある可能性を示唆しています。


建築様式と文化財

大善寺玉垂宮は、その歴史的な深さだけでなく、境内を彩る独特の建築様式と貴重な文化財によっても特筆すべき存在です。

境内と主要建造物の概要

境内は約1万5000平方メートルに及び、広大な敷地の中に多くの建造物が配置されています。主要な建造物としては、本殿、弊殿、拝殿、楼門、惣門、回廊、神輿殿、石鳥居、社務所などが挙げられます。特筆すべきは、神仏習合の歴史を物語る仏教的な遺構として、鐘楼や阿弥陀堂が現在も境内に存在している点です。これらは、明治の神仏分離以前の神社の姿を今に伝える貴重な要素です。

また、境内には石鳥居や、かつて神社の門前町筋から神殿へ一直線上に架けられていた祭典専用の神橋である傘橋(唐傘橋)の記念塔などの石造物が見られます。

独特の建築的特徴

大善寺玉垂宮の建造物には、その歴史的背景を反映した独特の建築的特徴が見られます。

  • 拝殿:福岡県内でも珍しい、総円柱で造られ、手先斗で屋根を支える様式を持っています。
  • 本殿:屋根が寄棟造りで、妻入りという特徴的な様式を採用しており、これは寺院建築に多く見られる形式で、神社建築としては珍しいものです。この特徴は、神仏習合の時代の影響を強く示唆しています。
  • 鳥居:複数の石鳥居があり、それぞれ異なる様式を示しています。特に、高さ10メートル、柱径1メートル、柱間6メートルに及ぶ大鳥居は、その規模と壮麗さにおいてこの地方最大級とされています。
  • 狛犬:拝殿前には一対の石造り狛犬が鎮座しており、右側が阿形、左側が吽形です。これらは久留米市内でも古い狛犬であり、山北型狛犬の祖形式を知る上で貴重な作品とされています。
  • 傘橋:かつて存在したこの祭典専用の神橋は、宝暦11年(1761年)に建立されましたが、度重なる氾濫で流失。天明元年(1781年)には、水圧を考慮して一本足にし、中程から傘のように細い数本の支えを付けた構造で再建されたという記録があります。

これらの建築的特徴は、神社の歴史、特に神仏習合の時代を色濃く反映しています。本殿の寄棟造りや妻入りといった寺院建築に多く見られる様式、そして鐘楼や阿弥陀堂といった仏教的建造物が境内に現存していることは、神仏習合が単なる概念的な融合ではなく、物理的な空間と建築様式に深く刻み込まれていたことを示しています。

また、境内に点在する複数の石鳥居や傘橋の記念塔といった石造物は、歴史の重要な目印として機能しています。これらの石造物の様式や銘文は、特定の歴史的時代、当時の有力者による庇護、そして地域の石工技術のレベルに関する具体的な証拠を提供しています。

指定文化財

大善寺玉垂宮は、その歴史的・文化的価値が認められ、複数の文化財が指定されています。

  • 国の重要無形民俗文化財:「鬼夜」(1994年12月13日指定)。
  • 国の重要文化財:「絹本著色玉垂宮縁起(けんぽんちゃくしょくたまたれぐうえんぎ)」2幅。南北朝時代の建徳元年(1370年)に描かれたもので、神社の起源と歴史を描いた貴重な絵巻物です。

その他、社宝として「頭巾鳥兜」や「御幡」なども伝えられています。

結論

大善寺玉垂宮は、その深く多層的な歴史、神仏習合の痕跡を今に伝える建築様式、そして国の重要無形民俗文化財であり日本三大火祭りの一つにも数えられる「鬼夜」を核とする、比類なき文化遺産です。4世紀にまで遡る起源と、白鳳元年(672年)の正式創建という二重の歴史的側面は、この地における信仰が、制度化された歴史を超えて、いかに古くから地域に根ざしてきたかを示しています。玉垂命という謎多き主祭神と、八幡大神、住吉大神といった広く信仰される神々を共に祀る祭神構成は、地域固有の信仰が時代と共にいかに巧みに適応し、より広範な宗教的・政治的文脈に統合されてきたかを物語っています。

神仏習合の時代には、境内に仏教寺院が建立され、地域の宗教的中心として栄えましたが、明治維新による神仏分離を経て、寺院は廃止されました。しかし、鐘楼や阿弥陀堂といった仏教的な建造物が境内に残存していることは、神道と仏教がこの地でいかに深く融合していたか、そしてその影響が完全に消え去ることがなかったことを示唆しています。これは、日本の複雑な宗教史における神仏の融合と分離の過程を理解する上で、貴重な物理的証拠となっています。

「鬼夜」祭は、藤大臣による賊徒退治の伝説に由来し、火を媒体とした浄化と再生の儀式として、1600年以上にわたり継承されてきました。この祭りは、巨大な松明が燃え盛る壮大な光景だけでなく、火の粉を浴びることで無病息災を願う人々の信仰、そして裸の若衆による身体的な参加を通じて、地域社会の結束と世代間の文化伝承を強力に促進しています。複数の情報源が「日本三大火祭り」の一つと称する一方で、一部の公式文書にはその明示的な記載がないという点は、文化遺産の認識において、公式な分類と地域に根ざした評価との間に興味深い差異があることを示唆しています。しかし、このことは祭りの圧倒的な迫力と地域における重要性を何ら損なうものではありません。

大善寺玉垂宮は、単なる歴史的建造物ではなく、地域社会の精神的な拠り所であり、生きた文化の象徴です。その優れたアクセス性と、筑後川流域の景観まちづくり協定に組み込まれた地域連携は、神社が周辺の豊かな観光資源と相乗効果を生み出し、持続可能な観光と地域活性化に貢献していることを示しています。

総じて、大善寺玉垂宮は、日本の宗教的・文化的変遷の縮図であり、古代からの信仰が現代にまで息づく稀有な存在です。その歴史、建築、そして祭りは、地域の人々の生活と深く結びつき、未来へと語り継がれるべき貴重な遺産として、今後もその重要性を増していくことでしょう。

アクセス


参拝には車が便利です。西鉄大善寺駅からも歩いて行けると思います。
駐車場は裏手の方のグラウンドと共通になっているようです。
また、正面入り口の方は「からかさ橋」から川を眺めるのも良いかもしれません。

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