柳川城紹介
歴史
柳川城は、筑後国に位置する歴史的な城郭で、その歴史は戦国時代にまで遡ります。永禄年間(1558~1569)に、当時の筑後国衆であった蒲池鑑盛によって、最初は蒲池城の支城として築かれました。その後、本城として発展し、九州の重要な拠点となっていきました。
城の支配者は時代とともに変遷を重ねました。天正9年(1581)には龍造寺氏の支配下に入り、その後、豊臣政権下で立花宗茂が入城。関ヶ原の戦いを経て、田中吉政が入城すると、本格的な近世城郭としての整備が行われました。特筆すべきは、5層の天守を備えた堂々たる城郭構造で、内郭には本丸、二ノ丸を配し、それらを内堀と三ノ丸で囲む、当時としては最新の防衛システムを誇っていました。

柳川城跡
特徴
柳川城の最大の特徴は、その独特な水城としての構造にあります。城郭は柳河・沖端の2つの町と、沖端川・塩塚川という二つの河川に囲まれ、さらに城内には縦横無尽に掘割が張り巡らされていました。この水系による防御システムは、当時「柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝飯前」という戯れ歌が示すように、攻略に3年を要するとされた難攻不落の城としての評価を確立させました。
元和6年(1620)からは、立花家が再び城主となり、以後、幕末まで柳川藩10万9千石の居城として栄えました。しかし、明治時代に入ると、城の運命は大きく変わります。明治5年(1872)の火災により本丸・二ノ丸と天守が焼失し、その後、石垣は海岸堤防の修築に転用されるなど、城郭としての姿は徐々に失われていきました。
現代では、天守や内堀の多くは失われましたが、往時の面影は街の構造の中に今も息づいています。城堀の一部や土塁、そして特徴的な町割りは、近世城郭の遺構として高い価値を持っています。特に水路網は、現代の柳川の観光資源としても重要な役割を果たしており、かつての城下町の雰囲気を今に伝えています。
柳川城は、単なる軍事施設としてだけでなく、水と共に発展した日本の城郭建築の優れた例として、歴史的・文化的に重要な意味を持っています。現在は市立柳城中学校の一角に城址として残されていますが、その水城としての構造や防御システムは、日本の城郭史上、特筆すべき存在として評価されています。
アクセス
柳川城へのアクセスは、近場の市営駐車場を使うのが便利です。

ついでに近場を観光したい場合は、御花(立花氏別邸)や沖端が近くにあります。