柳川城 – 水の都に息づく歴史と文化の要塞

柳川城説明

柳川城紹介

時を超え、水辺に佇む幻想の城跡:柳川城の歴史と魅力

福岡県柳川市、掘割の美しい水郷として知られるこの地には、かつて「柳川城」という壮麗な城郭がありました。残念ながらその姿は今では見られませんが、その歴史と面影は、今もなお柳川の街に深く息づいています。今回は、柳川城の知られざる歴史と、その魅力に迫ります。

柳川城とは?

柳川城は、戦国時代から江戸時代にかけて、この地の政治・文化の中心として栄えた城です。その最大の特徴は、何と言っても「水」を巧みに利用した縄張りでしょう。天然の河川や掘割を最大限に活用したその構造は、「水城」とも呼ばれるにふさわしいものでした。

柳川城の歴史をたどる

築城から立花氏の時代へ

柳川城の築城には諸説ありますが、戦国時代の永禄年間(1558年~1570年)に、柳川城主であった蒲池鑑盛(かまち あきもり)によって本格的な築城が始まったとされています。その後、九州を席巻した豊臣秀吉の九州平定後、文禄元年(1592年)に立花宗茂(たちばな むねしげ)が柳川城主として入城します。

立花宗茂は、「西国無双」と称された勇将であり、彼の時代に柳川城は大きく改修され、その堅固な姿を確立したと言われています。宗茂は関ヶ原の戦いで西軍につき一時的に改易されますが、慶長5年(1600年)には加藤清正の尽力により旧領を回復。再び柳川の地に戻り、藩政の基礎を築きました。

田中氏から立花氏再興、そして明治へ

慶長6年(1601年)には、田中吉政が柳川城主となります。彼は城郭の整備や治水工事に尽力し、現在の柳川の街並みの基礎を築いたとされています。しかし、田中氏は無嗣断絶となり、元和6年(1620年)に立花宗茂が再び柳川藩主として入封。以後、明治維新まで、立花氏が柳川藩10万9千石の居城として柳川城を治めました。

江戸時代を通じて、柳川城は柳川藩の政治・経済・文化の中心として繁栄を極めます。藩主屋敷や武家屋敷が立ち並び、多くの人々が行き交う活気ある城下町が形成されました。

柳川城の面影を求めて

明治維新後、残念ながら柳川城は取り壊され、その姿を失ってしまいました。現在、城跡には柳川高校などが建ち、当時の面影を直接見ることはできません。しかし、当時の石垣の一部が残されていたり、城の周辺には堀割が巡らされ、往時の水城の雰囲気を今に伝えています。

柳川城跡に足を運ぶ

現在、柳川城の本丸があったとされる場所は、柳川高校の敷地となっています。敷地内には、城の遺構を示す説明板などが設置されており、かつての城の様子を偲ぶことができます。また、お堀巡りの船から、水辺から見た城の姿を想像するのも一興です。

柳川藩主立花邸 御花(おはな)

柳川城のすぐ近くには、旧柳川藩主立花氏の邸宅であった「御花(おはな)」があります。こちらは明治時代に建てられたもので、美しい庭園「松濤園」や、当時の生活を伝える調度品などが展示されており、柳川城の歴史と合わせて訪れると、より深くその文化に触れることができます。

柳川城の防御力の主な特徴

  1. 徹底した水の利用(堀割の網目)

    • 天然の要害と人工の堀割の融合: 柳川の地形は、有明海沿岸の低湿地帯であり、天然の河川や湿地が多く存在していました。これを最大限に活かし、さらに人工的に掘割を張り巡らせることで、城全体を水で囲む構造になっていました。
    • 多層的な防御網: 城内、そして城下町にまで無数の堀が縦横に交わり、まるで迷路のような水路網が形成されていました。これにより、敵は容易に城に近づくことができず、また侵入したとしても、その移動を大きく制限されました。
    • 水量の調整機能: 堀の水量を調整できる仕組み(扉の開閉など)があったとされており、これにより敵が渡ろうとする際に水深を深くしたり、あるいは流れを速くしたりするなど、防御側の都合の良いように水を利用することができました。
    • 「水城」としての難攻不落性: 水に慣れない敵にとっては、この水の防御網を突破することは非常に困難でした。特に大軍での攻城戦において、兵の展開や物資の輸送に大きな制約を与えました。
  2. 堅固な城郭構造

    • 本丸の石垣: 現在は一部しか残っていませんが、本丸は周囲を全て石垣で囲まれていました。これは、当時の最先端の築城技術が用いられていたことを示唆します。
    • 虎口の工夫: 城の出入り口である虎口(こぐち)は、食い違いの巨石を使ってジグザグに進むルートが設定されていたと考えられています。これにより、敵が一直線に侵入することを防ぎ、多方向からの攻撃を可能にする設計でした。
    • 5層の天守: 柳川城には5層の天守が築かれていました。これは当時としては非常に大規模で、周囲を見渡せる高い位置からの監視や、遠距離からの射撃を可能にするなど、防御の要としての役割を果たしました。
  3. 伝説的な難攻不落性

    • 「柳川三年、肥後三月、肥前筑前朝茶前」: この言葉は、柳川城の堅固さを象徴する有名な言葉です。「柳川城を攻め落とすには三年かかるが、肥後国平定は三ヶ月でおわる。肥前国、筑前国を攻略するなんて朝飯前さ」という意味で、当時の人々が柳川城をいかに難攻不落と考えていたかが伺えます。これは、立花宗茂の養父である戸次道雪ですら攻めあぐねたという記録も残っています。

まとめ

柳川城の防御力は、単に高い石垣や堀だけでなく、柳川という地の利を最大限に活かした「水」の防御を巧みに組み合わせることで、極めて高い堅固さを誇っていました。戦国時代から江戸時代にかけて、この地の支配の要として、幾度となく攻防戦の舞台となりながらも、その堅固な防御力で柳川の平和を守り続けたのです。

柳川城は、その姿こそ失われてしまいましたが、水郷柳川の歴史と文化を語る上で欠かせない存在です。かつての壮麗な水城に思いを馳せながら、掘割を巡り、歴史的建造物を訪れることで、柳川の奥深い魅力に触れることができるでしょう。

ぜひ、柳川を訪れた際には、この地の歴史を育んだ柳川城の面影をたどってみてください。

アクセス

柳川城へのアクセスは、近場の市営駐車場を使うのが便利です。

ついでに近場を観光したい場合は、御花(立花氏別邸)や沖端が近くにあります。

近場の観光地

「名勝・立花氏庭園」は7000坪にもおよぶ、国の名勝と、歴史ある港町として知られ、その豊かな文化遺産と水辺の風景が訪れる人々を魅了する沖の端。
立花氏庭園と沖端、柳川観光の中心地

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